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孤盲猫を撫でる 3 ホモォの近代化 のお話 0はじめに [歴史関係]

 とあるサイトを中心に 孤盲シリーズというのをやってたんで、その流れでこのお話はその3、になります。

自分の興味関心を欲望のままに適当なレベルで考えるのがこのシリーズの基本。
わかんないことは「わかんない」で、押し通すのが流儀。
論文とか論考ではないお話レベルなんで、穴だらけなのは目をつぶるとよい。

なおシリーズは

プレ等:朝鮮半島における稲作に関しての近代の諸相、等いくつか
1 日本建築における「塀」の歴史的変遷
2 近代総督府時代の朝鮮半島における衛生について
外伝 障子という日本文化のこと(引き戸文化というものがわりと日本独自であること)

と言ったことを扱いました。途中で先生に見つかりメメタァされたりしたり色々あったんですけどね。今回、そこを使わないのは純粋に日本のお話のため。

 さて、今回はホモォの近代化のお話。元々こういった文化の奥底のことはわりと興味があったのですが、たまたま友人が興味を持っていたと知り、ではちょっと見てみようかというわけです。
 
 今回の話題について先に申し上げておきますが、中の人は極めてノーマルです。こんな話を書くんだからそっち系の人だろうとか思われると困ります。今年理想の黒猫(メス)を得て、楽しく下僕生活を送っている、ノーマルな人です。ゲイバーとかにも何回か連れて行ってもらったことがありますが、繰り返しますがノーマルです。

…これくらい書いておいても、どこから何が出てくるかも分からないという恐怖はあります。まぁ、そんな話。

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 まず、基本的な理解

日本においてホモォは

1 日本書紀・続日本紀あたりの記述が最古
2 仏教の女犯思想の伝来と共に寺院でなされるようになる
3 平安時代公家(これは公家が出家していくことからだと思われる)・上皇などに拡がり、そこからまた武家に拡がったと考えられる
4 戦国時代は武将の男色が当たり前のものとして存在し(ていたとされる)、江戸初期から家光の時代くらいに大きく興隆した
5 江戸中期には弥次喜多がホモ友であるとか、好色一代男が725人男の子とやったなど文学でも普通に扱われるようになった。
6 江戸後期寛政天保の改革時には規制されていき衰退
7 明治維新後キリスト教価値観の流入によって急速に異端視され消えていった

というのが通説です。

今回のお話は

7以降、ホモォな人々は近代どう見られていたのか、どこへ行ってしまったのかと言った部分になります。


 参考にしたのは国立国会図書館近代デジタルライブラリー(近デジ)。ほかに多少の文献を当たっています。書籍としてはそのものとはちょっとずれますが 『女装と日本人』(三橋順子:2008)も援用させてもらいました。女史のお話はむしろ現代(戦後以降)に関するものが主ですが、非常に興味深いものです。また女史のHPも参考にさせていただいています。もちろん裏取りの出来る部分はなるべくしました。話題が話題なので、まとまった論考と言うものは見つけられませんでした。加えて、その時代その時代の文献でも基本的にはホモォは否定的であり、情報も多くありません。ですので、かなり想像で補完しています。ご理解いただきたく。そこまで突っ込んでやると歴史ではなく民俗学になるし。
 また、色々なタームが出てきますが、ホモォそのものは一般的には男色、もしくは広義にホモォと表現します。

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孤盲猫を撫でる 3 ホモォの近代化 のお話 1聖お兄さんは陰間を駆逐したか
1)
1868(M1)-1886(M19) 
 さて、まずは維新期から明治20年頃まで。そしてこの時代が最も闇に包まれていると言えます。そもそも、近デジにあった諸本(主に大正末以降ですが)を総合すると、すでに明治初年には職業的男娼、陰間というものそのものが衰退していたという記述が多く見られます。また、幕末の英国公使がそう言った男娼を見て野蛮だといった(これは出所が明らかでありません)、という記述も見つかりました。陰間も江戸期には女性を客にとっていたと言うこともあり、広く見ればこれらの男娼はホモォではないのですが、広く見れば明らかにホモォ。

 明治新政府はこれらの職に対してではなく、鶏姦という行為について1873(M6)改訂律令266条(鶏姦律)で禁止しています。鶏姦というのは肛門性交のことです。その前年に娼妓解放令、1876(M9)には売淫罰則と、女性の売春に関しては職業的なものとして規制をかけていますが、この中に陰間茶屋に関する記述は無かったと思います。これらの法令には子女という表現がありますが、明らかに対象は遊郭と女性にあります。
 すなわち、この段階で陰間茶屋という存在は、遊郭に比べ相対的に無視できる程度の存在であったと見ていいでしょう。維新期には武家の女性が多く春をひさぐようになった、と言う記述もあり、女性売春の方が西欧化と言う切り口からは非常に問題だったと思われます。
 その代わり鶏姦罪というものが設定されるように、強姦を含め男性同士のそうした行為があったことも間違いないようです。それを裏付けるものとしては1874(M7)・1879(M12)に法学的な見地から鶏姦のことを記述したものが残っていました。特に1879の「強姦検察法」では医学的な観察という観点で、突っ込まれたかどうかを確認する法的証明について説明がなされていました。ただし、後代の本では鶏姦とは何かということに関して、女性に対する鶏姦と言う記述もあり、すべからく男性同士の行為として意識されていたわけではないことを附記しておきます。

 いずれにせよ、この明治の初期では西欧化にとって女性の売春の方が重要な問題であったことと、男性同士の行為が残っていたことは間違いないようです。
 当時すでにホモォは「新聞記事」になるくらい珍しいものでありました。が、ここは若干問題がありまして、日本では識字率が高く一般大衆が新聞をそこそこ読んでいたということがあり、エキセントリックな話題を常に求めていたという問題があります。あれですね、どこぞのお偉いさんの奥さんが不貞したとか、目玉が三つある赤ん坊が生まれたとか、現代でいうと東スポ的なあれ。新聞記事だから丸々信用する、というのはちょっと危険ではありますが、そう言う話題になるくらい希少であったというのは問題ないでしょう。

 思想的な問題からも少し当たってみましたが、キリスト教を宣布するために男色を糺さねばならない、と言うものはなく、むしろ世相としては仏教側はキリスト教を揶揄し、キリスト教も揶揄し返すと言った関係しかなく、仏教は男色をしている!と言うようなものは見つけられませんでした。当時の仏教は廃仏毀釈の嵐の中にあり、神主に衣替えするものも多かったこともあり、それどころではなかったのでしょう。
 1886(M19)に「社会改良と耶蘇教徒の関係」という本が出ています。この中で筆者は「江戸時代に男女が席を同じくしないというのは幻想である」と、錦絵に描かれた男女をつぶさにカウントして証明しようとしています。何人人間がいて、男が何人、女が何人、並んでいるいないまで観察しています。結論として男女は並んでいろんな所に出かけている、としています。そして武家の中だけは儒学的な思想がはびこり男女間が正常なものでなくなっているとしています。どちらかと言えば、この本にあるように一般民衆は普通に男女関係を結んでおり、そこにキリスト教的男女関係の概念を持ち込むのはさして難しくなかったのでは無かろうかと思われます。

 後述することになると思いますが、大正昭和になると、古老の話として江戸時代の江戸にはもう陰間なんかほとんどいなかったし、興味を持つものもいなかった、それなのに薩摩の奴らがそうした文化を帝都に持ち込みやがった、と言う述懐がたまに見られました。漠然としておりなおかつ拠り所もないまま、維新期の江戸っ子は陰間というものをもう古いものと見なしていたとも思われます。
 そこにキリスト教を基盤にした西欧思想が入ってきたためそれを拠り所としてホモォを「過去の因習」としていった、と言うところがこの時代の社会一般だと思われます。
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2) 
 1887(M20)-1904(M37)あたりになると、まず社会の一つ動きが出てきます。
女学生なる集団の形成と職業婦人というものの発生です。勿論江戸以来女性労働者というのは養蚕や機織りと言った中で集団化していましたし、女大学と言った女性独特の教育概念もありました。しかし、良妻賢母の育成と西欧的女性教育という旗印の下形成されていく女学生と、医療や事務業務と言った西欧的職業婦人の発生は、日本の欧化の中で一翼を担っています。地位向上とかそう言うのは横に置いておくとして、確実に社会進出が図られていきました。
 しかし、内実はお粗末なところもありそれこそ現在と全く変わらず「女学生崩れ」がカフェーで女給に身を落とすなど言語道断、と言った話が出てくるのもこの頃です。

 またこの時期に日本の精神医学の世界では画期的な事件が起きています。
クラフト=エビングのPsychopathia Sexualis(初版:1886)の邦訳です。最も古い邦訳は1894(M27)『色情狂編』。これは政府から発禁を受けますが、後1913(T2)『変態性欲心理』として再訳され、以後こうした精神病理に関する基礎論考の一つとしてずっと引用されます。エビングはサドマゾや同性愛について最も早く研究した人ですが、カトリックの敵意を買ったことやフロイト学説が主流になったことで西欧では長い間低評価だったそうです。
実際、この後に出てくる日本の研究でもエビングを例にしながらも同性愛否定や同性愛が精神的なものであるとの立場が主流です。

 それでもエビングの邦訳が出てくるに至りホモォを「科学的に」考え、その上で善悪を議論すると言った状況がこの頃出てきたようです。実際には大正までその動きは活発ではありませんが、原著を読んだであろう医学者が鶏姦について述べています。

1 900(M33)の『医事断片』(田中祐吉)では鶏姦を悪しき例として江戸時代を批判し、なおかつ現在もその風習が残っているとしています。同年の『男女生殖健全法』(松本安子)では四国九州北国に鶏姦が残るとしています。また鶏姦律で激減したが、薩摩出身者が男色を兄弟のちぎりと言っているが、美男子ばかりを選んでいるのはどうか、と言うことに触れています。同じく『実用衛生自強法』では鶏姦が維新前にあったという古老の話を紹介しています。そしてこれらの書籍では鶏姦を手淫・獣姦と並べて論じていて、この時代の医学的見地から見た鶏姦はかなり危ないものとしていたことが分かります。手淫の弊害はキリスト教的概念でしょう。このあたり西欧の学説がそのまま流れ込んでいることが分かります。
 そしてこの段階でも鶏姦、特にホモォが薩摩人によって行われていたことや学生間にあったことも分かります。森鴎外の軍学校での貞操の危機もこうした時期のものでしょう。
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3)
 1905(M38)-1912(M45-T1)になると、鶏姦は陋習であるという記述やそれに伴う薩摩の風俗を断罪するもの、鶏姦で淋病になった13歳(数えですから小学6年くらい)の美少年を哀れむ話などが出てきます。この時期鶏姦は圧倒的に罪悪感のあるもの、と言うのが社会的な通念になってきていたと思われます。学生は学生同士清い付き合いであるべきと言った論調も見えます。ここに女学生の影響が垣間見えてきます。
 この時期の新聞記事に、明治40年頃までは不良の(学生)集団が男色を多くしていたが45年にはすでに下火になり、女性を引っかけたり盗みが中心になっている、と言うものを見つけました。学生間でも鶏姦が減少してたという事なのでしょう。
 ここは想像の域を出ませんが、学生社会が圧倒的に男社会であったため性欲解消がホモォしかなかった明治初期から、とにかくお付き合いできる女学生の登場でホモォでの解消が不要になっていった、と言うところではないでしょうか。軍隊はともかく一般的な職場ではホモォの出る幕もなさそうです。

 どうやら明治のホモォは聖お兄さんが駆逐したのではなく、花村紅緒の先輩が駆逐したようです。

 では、次回。大正時代を中心に考えます。終戦までいっちゃうかもしれないけど。
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